たたら製鉄とは
鉄との出会い
私たちの現代の生活おいて、“鉄”は常に身の回りにある物に使用されています。情報収集、連絡手段で使用するため普段から身に付けているスマートフォン、移動手段として町中にあふれている車、家の中では洗濯機、冷蔵庫、包丁などの調理道具など、挙げればきりがないほど様々な場所に存在しています。
そもそも、鉄はいつから私たちの身の回りにあったのでしょうか。時代を遡ること縄文時代末、大陸から日本列島に鉄器がもたらされたことが鉄との出会いと考えられています。弥生時代のはじめには、鉄素材を輸入に頼りながらも列島内で鉄器の加工生産が行われるようになり、やがて弥生時代後期になると、小規模な製鉄が行われ、そこでつくられた鉄に大陸からの鉄素材を加えて鉄器の生産が行われるようになりました。その後、古墳時代後期には列島内の鉄生産が本格的になったものと考えられます。
このことから、日本列島内の古代製鉄史のなかで、6世紀が大きな転換期だったということがわかり、土製の炉に木炭と砂鉄を装入して鉄を作り出す「たたら製鉄」の技術もこのあたりから始まったものと考えられます。
鉄をたたらで作る
砂鉄と木炭を燃焼させて鉄をつくりだす日本古来の製鉄法を「たたら製鉄」といいます。日本刀の素材となる玉鋼などはこの製鉄法でしかつくることが出来ません。
中国山地では、原料となる良質な砂鉄(山砂鉄)を含む花崗岩が広く分布していたことから、山を切り崩して砂鉄混じりの土砂を水路へ流し込み、砂鉄選鉱場で砂鉄と土砂の比重の違いを利用して砂鉄を集める鉄穴(かんな)流しと呼ばれる手法で採取されました。また、燃料となる木炭は鉄師(たたら経営者)が所有する広大な森林から生産することが出来たことから、江戸時代後期から明治時代初頭の最盛期には鉄の一大産地として国内鉄生産量の9割近くを占めたといわれています。
たたら製鉄の技術責任者は村下と呼ばれています。村下は操業時に司令塔の役割を担っており、砂鉄の投入量や送風量などの全てを取り仕切ります。長年の経験により培われた技は代々受け継がれてきました。
たたら製鉄では木炭を燃やして砂鉄を還元し、鋼(はがね)や銑(ずく)、歩鉧(ぶげら)を生産します。1回の操業では開始から終了まで三昼夜掛かります。1操業は一代(ひとよ)と呼ばれ、田部家が経営した菅谷たたら(雲南市吉田町)では、一代で砂鉄を約12トン、木炭を約13トン投入し、約3トンの鉄塊(鉧)を生産したといわれています。たたら操業は年間に60~70回行われていました。
良質な鉄塊(鉧)を生産するためには、炉内に十分な空気を送る鞴が重要な役割を果たしています。中国地方では、天秤鞴(てんびんふいご)と呼ばれる足踏み式の送風装置が開発され、その導入により生産量が飛躍的に高まりました。その後、しばらくの間は長らく人力に頼っていましたが、明治時代には動力源として水車が使われるようになりました。
たたら操業でつくられた鉄塊のことを鉧といいます。鉧の中で炭素量が少なく固い部分が鋼であり、日本刀などの素材に使われる玉鋼は、その中でもとくに高純度の鋼のことをいいます。その他は銑や歩鉧と呼ばれ、これらは大鍛冶場で脱炭・鍛錬して割鉄(包丁鉄)と呼ばれる延べ板状の地金に加工されました。田部家に残る史料によれば、菅谷たたらでは鋼が2割前後、残りは銑や歩鉧がつくられたことがわかっています。
たたら操業の工程
炉づくり
- 準 備
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- 灰を締め固めた炉床の上に、良質な粘土を塗り固めて炉を築く
- 炉に火を入れ、炉を乾燥させる
- 操 業
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- 鉄の投入を開始
- 鉧が出来始め、安定操業に入る
- 鉧が成長。砂鉄と木炭の装入量を増やす
- 砂鉄の装入を続け、送風量を高める。ノロ(鉄滓)を出す
- 砂鉄の装入を完了
- 鉧出し(送風を停止し、炉を壊して鉧を取り出す)
鉄の流通
山間部に位置する菅谷たたらでつくられた鉄は、馬の背に積まれ川港へ向かいます。川舟に積み替えられた鉄は、三刀屋(みとや)川や斐伊川を下り、宇龍(うりゅう)港(出雲市)や松江港(松江市)まで運ばれました。そして、ここで廻船に積み替えられ、全国の刃物産地などへと出荷されました。これらの船は北前船と呼ばれ、全国各地の寄港地では安全を祈願した絵馬が奉納されています。
[参考]
和鋼博物館
http://www.wakou-museum.gr.jp/iron-01/
日本製鉄
https://www.nipponsteel.com/company/tour/about_iron.html
雲南市たたらプロジェクト会議
https://unnan-tatara.jp/